伍;真実の仔

あぁ、峠を越した。

安堵し強く握りしめていた手を開く。
掴みかかり揺さぶった時に抜けたであろう、我が子の髪の毛。
昔はやられっぱなしだったのに、中学に入ってから抵抗するようになった。
子供と言っても男性だ、振り払う腕の力に怯みそうになる。

だが、その抵抗がまたしても腹が立ち、ますます感情が昂ぶってしまう。
髪を掴み、揺さぶり、足を払い倒させる。
ふぅ、いい気味、上がったテンションのまま力も緩めず腹を踏む。
苦しげな息子、もっと反省しろ!もっとだ、もっと!もっと!

興奮状態にいるときの私は、まるで鬼。
何でこんなに怒りを爆発させているのだろうか?
息子の姿が、母にやられっぱなしだった私の姿と重なった瞬間、感情の制御が不能になってしまう。怒りの増殖は、息子の行動ではなく母に一方的に叩かれ平伏し泣いて謝る過去の私。

復讐と言い換えてもいい。だが何に復讐しているのかがわからない。
私は人としての境界線のようなものを越え、本当に鬼になってしまったのだろうか?
人でありたいと強く願うのに、命令するのだ。
– 私の中のあの「仔」が。

 息子を愛しちゃってるけどさぁ、私愛されなかったじゃん?
 なんかずるくない?ねぇ、我が子ってそんなに可愛いの?
 するいよ、許してもらってさ、宿題まだやってないんだよ?
 習い事もさ、通ってるだけでお金ばっかかかるじゃん。
 意味ないよねー。そんなら私に遣ってあげなよ、不公平じゃん。

「仔」が私の怒りのダイヤルを勝手に回す。

気がつけば、
あんたにいったいいくらかけてると思ってるの、いい加減にして、金の無駄。
そんなに勉強が嫌なら学校に行かなくていい、今すぐ担任に辞めますって電話してやるよ。
家を出て行け。謝るぐらいならなんで最初からやんないんだよ、この役立たず。
こんな酷い言葉を吐いている。

俯き黙る息子。

お願い、黙らないで、訂正して。
母さんの言っている事は正しくないと…頼むから…心の中で必死に祈るけれど、口から出るのは罵詈雑言。
違うの、私はこんな事を言いたいわけじゃないし、あなたを殴りたくない。
殴り返していいから止めて。
そうじゃないと「仔」がさらにダイヤルを回してしまう。
お願い、お願いだから、これ以上、私もあなたも傷つけたくないの。

残念だけど、結果はいつも同じ。
顔を避け、拳で頭を殴り、押し倒し腹を蹴る。
喚き散らし、怒鳴り散らし、感情のまま、加減など一切考えもせず。

まるで鬼、どこからどう見てもその姿はもはや人ではない。

もう嫌だ、こんな地獄を演じたくない、やりたくない。
頼むから「仔」よ、大人しくして。
どうしたら息子を攻撃せずに済む?

 無理に決まってるって。
 だいたいさぁ、あんたが子供産むからじゃん。
 何当たり前の様に愛しちゃってんの?
 親が違うだけで待遇いいなんてずるくない?
 私たくさん我慢したよ、辛かったし痛かったもん。
 あんたの息子も私と同じ目に合うべき。
 じゃなきゃ不公平。

そう言って、私のお願いを聞き入れてくれない「仔」。
止めなくちゃ、こんな非人道的なことをしてはいけない。
やっていることは暴行だ。わかっている、わかっているのだ。
それでも私は私を止められず、醜い言葉と暴力を相も変わらず奮ってしまう。

反省し、謝り許しを乞い、普通の母親に戻る努力をするのだが、過去に自分が叱られた事と同じ行動を息子がとると、すかさず「仔」が怒りのダイヤルを回し始める。

助けて欲しい。誰か「仔」を鎮めてください。
どうか私を普通の母親にさせてください。
夫に助けを求めたくても、この姿を知られるのが怖い。

わかっている、問題は私自身にあるのだと。
母からの激しい折檻の記憶が消えないのだ。
子供と接している時、ふと「仔」が本音を私に聞かせてくる。

 やっぱずるい!
 あたしがこんな事したら血が出るまでフルボッコだったじゃん。
 忘れちゃったの?だめだよ、許しちゃ。
 ちゃんとしつけないと。甘やかしたらダメになるじゃーん。
 そう教わったでしょ?お・か・あ・さ・ん・に!

私を小馬鹿にする様にケラケラと笑う「仔」
どうすれば私はこの地獄から抜け出せる?
息子の中にも「仔」がいるのだろうか。

幼い時、いつも怖くて痛くて暗くて狭い事をあの「仔」に代わってもらっていた。
だから大人になっても私を恨み許してくれず、ずっと文句を言い続けている。
 
 ずるいよ、私ばっかり損な役。
 忘れないでよ?いっぱい我慢してあげたこと。
 なんであんたの子供が普通に愛されてんの?
 私はそんなの認めないからね。

そう言われると私は一気に「仔」と慰め合っていた過去に戻ってしまう。
あの「仔」を見捨てるわけにはいかない、あの「仔」のおかげで、怖くて痛くて暗くて狭い事から逃げられたんだもの、と。

ある日、付けっぱなしのテレビから「虐待」の特集が流れた。
ある母親のケース。
シングルマザーの看護師、仕事のストレスの発散が、男児の兄弟を殴り蹴る事だと。
カメラが問う、なぜこんな酷いことをするのか。
母親は答える、うるさいなぁ、あんた達に関係ないじゃん、生かすも殺すも私の勝手。
モザイクが入っているから表情はわからないが、私には見える。
そう、きっと私と同じくギラつき血走った目で、懸命に「過去の自分」を倒そうとしているのだろう。

だがこうやって画面越しにみると、これはもはや「暴力」であり「犯罪」でしかない。
言ってることがもう人ではない。
母親が仕事で出かけた後、子供たちにカメラを向けた。
兄が言う、
「いつか弟と二人で母さんを殴り返すんだ。だからこっそり鍛えてる」

あぁ。この兄弟の中にも「仔」がいる。
いつか復讐するために強くなりたいと願う、幼い「仔」が。

私と一緒だ。
私は息子が憎いのではない。むしろ愛している。
なのに私が母にされたのと同様に彼の自尊心をボロボロにする事に躍起になってしまう。

私の母はもうこの世にいない。最後まで散々我がままを言い尽くし、私に看取らせた。
だから復讐したくても、反抗したくても、もうできない。

私の生きた地獄を、息子にも味合わせているんだと気がついた。
私が体験し辛かった事を、同じ様に苦しみ、私の気持ちを理解してもらいたい。
そう思っている私の「仔」にようやく気がついた。

そうか、私の幼い「仔」が、怖くて痛くて暗くて狭い所にまだいるからだ。
母を介護していた時、わざわざ病室の人に聞こえる様に大声で
「あぁ、あんたは何をやらせても上手くない、鈍臭くてイライラするよ。まったく役に立たないねぇ」と言った時に言い返したらよかったんだ。

ベットから動けない母、恐れず今までの不満をぶちまければよかったんだ。
そして役に立たないのなら私は必要ないね、帰るわ、と捨て去ってしまえばよかったんだ。
なのに私はそこでも、「仔」に頼ってしまった。大人になっても母が怖かったから。

だから「仔」が怒ったのかもしれない。
いつまであなたの弱さを私が引き受け続けるの?と。
いつまでもいいとこ取りでいるなら、私は私に復讐するよ、あの「仔」はそう訴えていたんだろうか。ちゃんと大人になれと。

だとしたら私が強くならなくては解決しない。
弱くてダメで自信のない自分を認めなくてはあの「仔」は消えない。
母に折檻されていて一番辛かったのは「惨めな私」
好き放題に叩かれ怒鳴られ、泣けば「うるさい」とさらに叩かれる、無抵抗な私。
私の幼少期が惨めであり、愛されてなかった事を私が認めたくなかったんだとわかった。

どうしたらあの「仔」の復讐心を昇華させてあげられるだろう。
私が母を憎む心をどうにかしなければ、私も息子も地獄を生き続ける事になる。
もうやめたい。怒鳴ることも、殴ることも。

散々考え、いい案が浮かんだ。きっと私もあの「仔」も気に入ると思う。

母の眠る墓を、墓仕舞いする事にした。
見栄っ張りで人見知りで気の弱い母だ。合同墓地で大人しくしていればいい。
母の骨壺を合同墓地へ葬る時、手紙を添えた。

「さようなら」

あの世でも母と一緒にいるなんて絶対に嫌だから。
どう?いなくなったあの「仔」に問いかける。
私にしては大胆だったと思わない?
何度問いかけてもあの「仔」は答えてくれない。
それがきっと答えなんだろうけど。

これで済んだわけではない。
踏みつけ弄んだ息子の自尊心を、私が回復させる責任がある。
まずは素直に全てを話そうと思う。
惨めだった私、暴行を働いた弱い私、母親ではなく人として最低な私。
全てをさらけ出し、謝りたい。

許しを乞うてはいけない。許される事ではないから。
そして許すかどうかを決めるのは息子であって私じゃない。

息子が13歳になるまで、ずっと私は弱かった計算になる。
だとしたら私と同様、きっと息子の中にも「仔」がいるだろう。

その「仔」に真実を、全てをさらけ出し、
真摯に向き合うことからはじめなくてはいけない。

一百野 木香