陸;これは脂肪?それとも希望?②

運ばれた病院には精神科があり、その日のうちに強制入院を言い渡された。
食事も管理され、薬も開けた口に乗せられ飲んだことを確認され、情報というものは一切禁止、当然スマホも。そして面会は希望者1名のみ、ならば私は武史がいい。その選択に間違いはなかった。彼は仕事終わりに「いつもと同じ」武史で私に会いにきてくれたから。

いきなり社会と遮断された私だれど、薬を飲むと自然と頭も心も柔らかくなり些末な事に思えるから不思議。外から鍵のかかった個室で誰とも顔を合わせない毎日だけど寂しくなかった。
だってカウンセリングの先生と話をするだけでとても疲れてしまうから。私の心を言葉にして伝えることが、もどかしさが、とても体力を消耗し寝るか食べるかトイレだけで1日が過ぎていく。

満員電車に揺られ通勤していた自分が遠い遠い過去の話のよう。今は何をするにも体が鉛のように重くて仕方がない。あの日私の身体に一体何が起きたというのだろうか。

カウンセリングで徐々に原因が見えてきた。

端的に言えば、過去からの積み重ねによる暴力の被害者。
酔って暴れ殴る父の姿、安定と安心の存在しない家庭、そこに住む家族の歪みを私が緩和する役目を背負わされていた家族の構造。
父の怒りは母と姉へ、母の苦痛は私への愚痴と勉強、姉の恐怖と絶望は他者への鋭い暴力に変換。それらが引き起こす家庭の不協を、私は「幼さ」を演じることで緩衝材になれると信じ、言い返すことも逃げることもせずあの場所でじっと耐えていた。

いつの日か家族みんなが仲良く笑えることを希望に。

その我慢は実を結ぶはずもなく、心も脳も常に危険に晒され殴られ続けていただけだった。私に自覚がなかったのは防衛本能、そして幸いにも私に希死念慮がなかった事が今ここに生きて存在している証。

辛さに耐えられないと人は自己を大切に扱わなくなるらしい。
確かに姉は自由奔放にみえ実は気が短い。些細な事でイライラしては目に障る相手を片っ端から徹底的に叩きのめす。
父の歪みの原因はきっと祖父。その闇を寸分違わず家庭に持ち込み、言葉と拳で支配した。当然うまくいくはずもない現実からアルコールに逃げた父は、支配者ではなく敗者だ。
そして母は父の暴力による恐怖に怯え、あの場所にとどまることを選んだ言うなれば共犯者。

私は搾取されているとは気がつかずに、優しさを、気遣いを、思いやりを、馬鹿みたいに家族に提供し続けた。不仲な家族という変わらない現実から生まれる、痛み寂しさ悲しさ苦しみ、やるせないまでの理不尽を、それでもなお気付かないふりをして、その代償に少しづつ少しづつ自分の心をを削って生活していたのだ。

褒められたものではないが、と前置きをし先生が語ったのは、彼氏でも良いから溜まった不満をぶつけていれば、ここまで酷くなる前に気がつけていただろう。なぜなら、そんな自分でい続ければきっと誰と付き合ってもうまくは行かず、安定を手に入れることが出来ず悩んだだろう。そして自分の事で手一杯であれば、家族の愚痴を素直に聞くどころではなく、不満は必ず自己か他者へ溢れ出していただろうと。

私の脳は、幼い頃から危機を察知しては私に知らせていた。それは草食動物がライオンから逃げる本能の信号。脳が知らせ続けた危機とは、父が吐き出す怒号でありバイオレンスで溢れた家。

ここに留まっていたら危ないよ
この場所は危険だよ

けれど子供は家から逃げられない。だから危険という指令がダバダバ脳から発せられても家庭に留まりじっとしているしかない。
私の脳は、この量じゃこの身体は危険を認識しないのか?と、さらに危機の指令をドバドバ送り続けた。長期間信号を送り続けた結果、正常であれば危険をキャッチし手足を動かして危ない場所から立ち去る、という信号伝達の器自体が壊れてしまったらしい。

言い換えれば、スタバにいてもコンビニにいても武史とベッドで寛いでいても、常に私の居場所は危険地帯だと脳は知らせ続け、指令をじゃぶじゃぶ出し続けた。
でもこの場所は危険ではないと分かっている自分と、本能が危険だ逃げろと指令を送る自分との間に混乱が生じ、心が迷子になったのだと。
安心な場所を危険と誤認する脳、私は24時間サバンナで生きる草食動物として張り詰めた緊張の中で生きてきたそうだ。

社会に出て自活の道もでき、彼氏という居場所も見つけ、危うさはあってもなんとか保っていた均衡を崩したのは姉。実家を再び怒号とバイオレンスの家に戻しつつあった。
絶え間ない愚痴や怒鳴り声に、とうとう私の脳が危険を知らせる限界を超えた日。
動くな、休め、死んでしまうと、心も脳も全員一致で動かないと決めたようだ。
これが電車に乗れず、社会に戻れず、入院を余儀なくされた理由。

残念だけど
脳の
機能は回復しないわ

先生が告げた。一生薬で脳内物質をコントロールしていかなければならないと。
信じられない。笑ってしまうほど、どこまでもあり得ないくらいに現実の話なんだって。そして仕事も辞めるよう言われた。しばらく体を休め治療に専念をし、落ち着いたら考えようね、って。治療とは、薬で脳内物質をコントロールしその状態に私が慣れるまで、を指すらしい。

私の努力も、家族への気遣いも、優しさも、我慢も、押し込め、閉じ込め、頑張ってきた今までが、あの日電車に乗れなかった「だけ」で。
たったあの一瞬の出来事で全て崩れる現実が存在するなんて信じられる?
少なくとも私は受け入れなど到底できそうにもない。
足元から今まで感じたことのない感情がぐわんと恐ろしい速さで立ちのぼる。

発しているのは私なの?

初めて
本当に
本当に
初めて
人に怒号を浴びせた

私の人生を返せ
元の体に戻してくれ
医者だろう
それくらいできて当然だ

泣き喚き怒鳴り散らし掴みかかり、心の膿みを、どす黒いやるせなさを、父や母や姉への憎しみの全てを。到底納得できない現実を目の前の医師のせいにしたかった。
家族のために堪えてきた健気な私は?怖さに怯えて我慢した私は?ねぇ、一体何のために頑張ってきたの?なんで私なの…なんで、なんで、なんでよ…

暴れる私を押さえていた看護師ごと、先生が優しく抱きしめた。

うん、やるせないよね
そうだよね、大丈夫
一緒に頑張ろう

あれほど我を忘れ泣いたのは生まれ落ちた瞬間と今だけなんじゃないか、そう思うくらい体の膿みを、悪しを、憤りを、切なさを、全部全部これでもかというほど吐き出した。

だけど
それで私の体が
治った
わけ
では
ない

すこしだけ鉛のような体が軽くなった気がした頃、先生が退院後について考えよう、と話をしてきた。私の心身の負荷の原因は怒号とバイオレンスの家、療養するにはまず穏やかな環境に身を置く必要がある。彼氏の家で同棲し続けられるのが良さそうだど相手の事情もあるだろうから、実家へ戻るなら、姉がご主人の住む家へ戻り以前のように三人で暮らすのが一番いい。言いにくいかもしれないから私からあなたの家族へ話そうと思うけど、いい?と。

実家で療養?不安が襲う、怖くて帰りたくない。
面会に来た武史に実家に帰りたくない、武史と一緒にいたいから貯金が底つくまで置いて欲しいと、気持ちを正直に伝えた。
武史の返事は、「俺は同棲でも構わないけど、親たちを安心させるため籍を入れて夫婦として一緒に住まないか?」だった。
耳を疑い、何度も本気なのか確かめたけど、嘘ではなかった。
社会人としてちゃんと生きている私でなくなったのに、こんな私を受け入れてくれるなんて思いもよらなかった。

あとで聞いたのは、先生が武史に私の病気の構図を説明した時に、実家へ戻すのは危ない事、同棲ではなく入籍をした方が心が安心するのではと考えたからだと。
今まで頑張ってきたご褒美なのかな、ポンコツになった私を受け止めてくれるなんて、この上なく幸せで、この上なくありがたく、武史と出会えた運命に心底感謝し、この気持ちを一生忘れないと心に誓った。

これが新たな「悪し」を産む原因になるとも思わずに。

退院後二人で実家へ行き結婚する旨を伝えると、父も母も申し訳なさそうにしつつも、ほっとした顔で祝福してくれた。約2ヶ月ぶりに会った姉は、以前よりも確実に過去の姉に近づいていて、化粧っ気のない不機嫌そうな顔で私を眺め言ったのだ。

「あんた、太ったね」と

薬の副作用の一つ、ムーンフェイス。体がむくんでいることだって自覚している。
そうだった、姉は昔から人が気にしている事を「敢えて」口にしていたぶるのが好きだった。
昔ならやり過ごせた刃物のような言葉も、痩せていない私という現実が、自信のなさが、一度平和を味わった自分の心にグサリと刺さって身動きが取れない。
情報を遮断されていた入院生活は、誰も私を傷つけない安全な檻の中だったのだと悟った。

脂汗、
動悸、
めまい、慌てて頓服を飲む。

あの日依頼日光を見るのが嫌になった。
キラキラ輝き、生きる事を賛美するような光など見たくもなかった。

私の住む世界は、病院と処方箋薬局と1LDKの部屋とスマホだけ。
どれほど通院し薬を飲みカウンセリングを受けようとも一向に外出できるようにならない。
外が怖い、武史が不在だと一人でシャワーを浴びることもできない。何度か二人でスーパーへ行ってみたけれど、自動ドアのレールがまるで自分の腰より高いハードルのように思え足が動かない。無理、跨げない、跨げるはずがない。武史の手をギュッと握り、俯き踵を返すしかなかった。

社会と私を繋ぐ唯一のものはスマートフォンだけ。
武史と僅かな友と母と姉としか繋がらないちっぽけで頼りない私の世界。
姉は相変わらず頻繁に連絡を寄越す。そう私も一日中家にいる仲間だから。不在も未読も既読スルーも今では許されない。
片手に収まる小さな機器が与える、見張られているかのような閉塞と大きな苦痛。

与えられる苦痛はね、
働かない、家事もせず寝てるだけ、それでいて旦那に許されているのは甘えだ、よくそんなみっともない体で平気だね、あんたまるで力士だよ、ちょんまげ結ってみなよ似合うんじゃん?男物のXLでも入んないんじゃない?そんなだらしない体でいたらそのうち離婚されるよ?
そんな類の悪しを込めた言葉の牙。
姉の人生がうまく行かない不満の全てがまるで私の病気と脂肪に込められているかのように、

病気を
薬を
先生を
体型を
体重を
哀れみ蔑み憎しみを込めなじるのだ。

姉は昔、顔が腫れ血を流し気を失うまで父に殴られた。怒号とバイオレンスしかないあの家で。母は止めようとするが、酒がまわり自己を見失った父にそんな声は当然届かない。幼かった私は震えて泣くことしか出来ず怖かった。いつか姉が死んでしまうんじゃないか、いつか父が人殺しになってしまうんじゃないか、と。

きっと姉は憎しみを、怒号とバイオレンスを、他の誰かに叩き渡したかったのだろう。姉の友人が言っていた、「昔のあんた相当やばかったよね、人殴るの楽しそうだったもん」と。
そんな姉を作り出したのは、間違いなく父のバイオレンスだ。とんでもないものを子供に与えたものだ。きっと姉の心の歪みの原因の根底はは私と同族であるはずなのに、心因性の病気という私が気に食わず、まるで仮病の子供だと決めつけ責め立てる。

気の持ちよう
甘えている
薬で治る訳が無い
医者を変えろ
外に出る努力をしろ

逃げて甘えているからそんなにぶくぶく太って醜い姿になっているのだ、と。
そしてそんな言葉が循環をよくするはずもなく、ますます外に出らなくなる私。
薬が増え、もう自分が痩せていた時代があったことも、会社で働いていた過去も、お洒落を楽しむ心があったことも、本当に現実世界の話だったのか?と思うほど、深海でひっそり暮らす魚のように、生活も容姿も変わってしまった。
けれど、それすらもどうでもよくて薬を飲むため腹を満たしベッドへ横たわりそのうち眠る、ただそれだけの毎日。


食事
睡眠
排泄

この繰り返しの毎日から、一体どうやったら抜け出せるのだろう。考えるにはあまりにも超えなくてないけない壁が高すぎて途方に暮れているうちに1日は終わってしまう。
生きる意味を見失い、かと言って死にたい気持ちがあるわけでもない。起きている時間のほとんどを寝るか天井をみて過ごしてれば、やがて武史が帰ってくる。その繰り返しでしかないが、どうでもいい気がするくらい薬は思考力を奪ってくれて楽。

深海でじっとしている私が憎いのか、父との激しい口論にほとほと嫌気が差しているのか、ご主人との関係が切れそうで不安なのか、あるいはその全てなのかはわからないが、姉の連絡頻度が度を超えて、苦痛を通り越し恐怖となってしまったスマートフォン。
唯一私と社会を繋ぐツール。
途方に暮れ、姉と頻繁に繋がるこの機器をいっそ破壊したくなる。お願いだ、深海でじっとさせてほしい。私はじっと潜って傷ついた体を心を癒す時間が欲しいのだ。

憎しみに支配された姉は私をそっと休ませてなどくれなかった。
姉の代わりに身を差し出さなかった私を姉は恨んでいるのだろうか。

想像する。
父と母は共依存で繋がっている。歪な家に生まれ落ちた姉と私。
想像する。
きっと姉は自分だけ殴られる痛みと差別と圧倒的な理不尽を感じていただろう。
想像する。
母は止めて自分が殴られることに恐怖を感じていたのだろう。
想像する。
姉は殴る父も、身を呈して庇わなかった母と私を恨んでいる。
想像する。
だから姉は真面目でお酒が苦手な人を夫に選んだんだろう。
殴らず怒鳴らず暴れない相手を。幸せになりたい、そう希望を込めて。

くそだな、父も母も。
そして姉の気持ちを思うと切なくなる。
怒号とバイオレンスが漂う家から抜け出し、明るく穏やかな平凡な生活をしたかったのだろう。根底は私と同じ感情だ。安心できる居場所で生きたい。ただそれだけなはず。

けれど姉は人の粗を口にせずにいられない。そして姉もまたアルコールに溺れると正体をなくして心の悪しをべろんと盛大にぶちまけてしまう。真面目でお酒の苦手なご主人は、飲みすぎないよう注意をしては怒鳴られて、諦めて先に寝ようとすれば殴られ泣かれ、本当に私を愛してるの?なんでわかってくれないの?と真夜中まで責められる。
植木職人の朝は早い。ご主人は正直実家にいてくれた方がいいとさえ姉に言ったらしい。酒をやめたら帰ってきていいが、やめられないなら別れたいと。

こんなはずじゃなかった…

姉も私も抱いている現状。
根っこは同じ、
だって怒号とバイオレンスの家で育った姉妹だもの。

ー続ー
一百野 木香