陸;これは脂肪?それとも希望?③完結

深海で永遠に人の目に触れず息をしていたい。
そんな搾かす程度の希望ですら叶わなくなった私の人生。

荒んで淀みきった家の中でどんなに努力をした所で変わらない。
勝手に産んでおきながら感謝を強要する父の恩着せがましい台詞を聞くのはもううんざりだった。だから大学に進学する気などさらさらなく、早く社会に出て働きたかった。

姉もどこかで気がついていたんだろう、あの家にいたら一生穏やかに暮らせない事を。
だから父と正反対の真面目で怒らずお酒の苦手な人を夫に選んだのだ。
結婚生活に期待と希望を込め、新たな人生をせっかく掴(つか)んだのに何故自分の手で壊してしまったのだろう。

父もそう。母は器量よしではないけれど、人当たりが良く働き者で、料理が上手な家庭的な人。父が壊さなければ「平凡な幸せ」はすでに手に入れていた。
きっと、全ては父の育った家庭が歪(いびつ)だったからなのだろう。

祖母はいつも誰かの悪口を話していた、それも一方的に。
私がいれば私に、祖父しかいなければ祖父に「あの人はああだからダメ、この人はこうだから不幸」とだらだら喋り続ける。
祖父はいつもしかめっ面でタバコを蒸し新聞を眺め「うるさい、黙れ」と祖母を恫喝する。
そして祖父はお金にうるさく意地悪だった。

いつだったかな?「小遣いをやる、お前たちどっちか選べ」そう言って下敷サイズの封筒をふたつテーブルに置いた。何やら固そうなものが入ってるであろう膨らみ。大きい膨らみと小さい膨らみ。

姉が迷わず大きい膨らみの封筒に手を伸ばす。「持ってみろ」と祖父、え?全部お金?と期待を込め祖父を見る姉。当然ながら私は小さい膨らみの封筒を持った。

「開けてみろ」中に入っていたのは50円玉を糸で結んだお金の輪っか。私の中身を見た姉は期待を込めて自分の封を開ける。しかし入っていたのは5円玉だらけのお金の輪っか。

「ほらな、欲をかくから失敗するんだ。さすがあいつの娘だよ、金に卑しい馬鹿だな」と満足げに笑うのだ。あの時の私はどんな顔をしていたのだろう?覚えているのは困惑だ。

お金がらみの意地悪をするのが祖父は好きだった。醜く争うよう仕向け、それに姉はまんまと嵌(はま)るから祖父に罵(ののし)られ蔑(さげす)まれ笑われる。
そしてお前の父親と同じで救いようのない馬鹿だな、と自分を殴る最低な父に例えられる屈辱。

じゃあ祖母は?といえばこれまた底意地の悪い人だった。
姉と遊びに行くと「何しに来たんだい?小遣いせびりに来たのか?卑しい子供だね、あんんた達は。とっとと帰れ」これが祖母流の「いらっしゃい、よく来たね」だった。

孫の私ですら散々傷つき泣かされた祖父母。父はあの祖父母に育てられたのだ、そりゃスクスク育つ訳が無い。結果、父は祖父の闇を寸分違わず家庭に持ち込んだ。自らの手で歪んだ家をもう一つ作り出し、「お前に似ている」と言われ続けた「娘(姉)」に、かつての自分の姿を重ね勝手に苛立ちを覚えた。

これが
父が姉だけを
殴り
続けた
理由

「愚かで卑しい悪し」がお前そっくりだと言われ続けた父は、きっと子育てすら満足に出来ないダメな自分と責められているようで苦しかったに違いない。家庭を持ち一家の主となってもなお自分を認めてくれない親。

だから本当のくそは祖父であり祖母。
最大の被害者はそんな家に生まれ落ちた父であり、私たち姉妹。

父も母も姉の私も「ただの平凡な暮らし」をしたかった。
どこにでも転がっているような普通の家庭に育ちたかった。
裕福な家庭に憧れたのではない、たった一つ「安寧」が欲しかった。

徹底的に自己を否定され続けた父は、心が未成熟なまま大人になり家族を持った。そして、上手くいかないのは自分以外の誰か、そう決めつけることで真実から目を背けてはアルコールに逃げた。酔っては本能を曝(さら)け出し、怒りを解き放っては過去の消化なかった怒りや悔しさ憎しみを撒き散らしたはずなのに、翌朝には発散した記憶が残らない。
いつまで経っても未消化なまま改善されない「愚かで卑しい悪し」な父の闇。

姉も同じ。腹が立てば拳で解消すればいい、そんな誤った教育を受けて育ってしまった。
わがまま放題甘やかしてくれる相手を美貌で「捕まえ」さんざん振り回し、相手との信頼関係を築く前に飽きて別れてしまう。いつまでたっても姉の心は満たされず、手っ取り早く「永遠の愛」を手にして安心したかったのだろう。

未消化の憤怒(ふんぬ)を処理せぬまま
父は「家長」という名目で
姉は「美貌」という餌で
関わる全てを思い通りに動かしたくて

でも叶わなければ駄々っ子のように「恐怖」で相手を支配する事で側にいさせようと「洗脳」をしていただけ。いつまで経っても相手との信頼関係が育つ所か、心が打ち解けることさえ出来ない寂しさが付き纏う、満たされぬ悪循環。

孤独な人たち

だから私は逃げたのだ。優しくて穏やかな「武史」という安全地帯に、そしてたまたま私は守ってもらえる相手と巡り合え運が良かっただけなのだ。

だが私だけが「安寧」を手にした事は姉からすれば裏切りだ。だからこそ片手に収まる唯一の私の社会越しに、私を嬲(なぶ)り、真綿で首を絞めるかの如く苦しめることに躍起になるのだろう。

でもね、私を詰(なじ)る姉の心の叫びが聞こえて辛いの。

どうして私は幸せになれないの?
どうしてあんただけ守ってもらえるの?
昔からなんで私ばっかり嫌な目に合うの?

姉の傷ついた心が必死に助けを求めている。それが痛いほど心に真っ直ぐに届くのだ。
でもね、姉の発する言葉には優しさが少したりとも入ってないの。
鋭い刃物や鈍器の類の確実に流血する恐怖の羅列が怖くて、逃げることしか私が選べない。

痛みの根っこが同じだから姉の悲痛な叫びがダイレクトに心に突き刺さる。
せめて私だけでも見捨てず側にいてあげられたら良かったんだけど、私の病気のカラクリを知った今、恐怖が先に立ち姉に近寄ることが出来ない。

武史は言う、いいよ無理せずゆっくり休め、俺が守るから大丈夫だと。
姉曰く力士のように太り陽も浴びず顔色の悪い私に、変わらず愛を込め優しく抱きしめてくれる。

あまりにも姉が「離婚されるよ」という言葉を連打するもんだから、つい言い返してしまった。
太った私でも変わらず愛してくれていると。
嫉妬と怒りが渾然一体となった姉が、ずるずるとこちらサイドの闇へと落ちてきてしまった。
底無し沼のような歪みが姉と私を絡め取り、正常な会話はもう成立しなくなってしまった。

それからだ、姉が体重計の写真を毎朝送れと駄々を捏ねたのは。

武史に助けを求めた。いいんじゃない?送ってあげれば。俺が外見で人を判断しないって事がわかるまで送りなよ、そう言われた。
そうか、姉は武史の愛を疑っているのか。

それからだ、私が毎朝自分の体重を計り姉に送信し始めたのは。

深海から眺める姉は、歪んだ底無し沼へ確実にずぶずぶと落ちている。
痩せろと詰(なじ)る同じ口で、体重が少しでも落ちていると調子に乗るなお前はただのデブだと罵る無秩序。
私の心が平気なわけがない、


睡眠
排泄
食事

睡眠
武史
排泄
食事

ループだ、終わらない。
もはや私には武史しかいない。私を助けてくる人も、私を生き続けさせてくれる人も、彼以外いないのだ。とうとう私の世界は武史と姉しかいなくなってしまったみたい。
武史だけが私の希望で、生きる事を許してくれる存在。彼がいなければ私はもうこの世にいる意味が見出せない程、深く深く深海に沈んでしまったようだ。

どこで間違えたんだろう、姉も私も。

姉はご主人との切れてしまいそうな「永遠の愛」をきっと今も失いたくないのだろう。けれど守り方が分からなく結局「実家とお酒と私を罵倒」する事で現実逃避をしているのだ。
わかるよ?見たくないものは見なくていい、過去の私はそう思っていたから。

「愚かで卑しい悪し」のせい?
もしそうなら誰がそれを私たちに与えたの?
少なくとも姉も私も、優しさや相手を思いやる心を持っていた。
それを搾取したのは誰?悪しなの?
あぁ、考えても解決の糸口がさっぱり見えない。

姉も私も「愛で守って」ほしかっただけ。
でも与えられたのは怒号とバイオレンスの家。

もういいや、変わろうとしたけど私の心が持たなかった。だから深海でひっそり沈んでいたい。
武史しか私の姿を見ないでいい優しい世界、誰も私を蔑まず憐まない傷つかない場所。

脂肪
太ってる姿が醜いと言われ殴られた姉
体型を活かし怨みをぶつけた過去の姉
脂肪
無くなったら美貌が手に入った過去の姉
美人というだけで扱いが変わった姉の世界
希望
美人になって相手を選べるようになった
だから幸せになろうと真剣に選んだご主人
希望
社会人になっていつでも家を出れると知った私
武史と出会い穏やかに暮らせる日々

悪し
こいつがまだ家族の心に溜まり続けているのを
知らなかった
悪し
ここまで人の心を破壊する実体の見えない感情
私たちが闇へと沈んだ全ての原因

でもね不思議なの
姉がイラつく私の脂肪がね
変わらぬ愛を注いで行くれる証でもある
私の唯一の希望なの

私が身に纏っているのは
脂肪?
それとも
希望?

突然、唐突に、姉と私の人生のカラクリの
真の答えが鮮やかに現れた。

そうだ、これは希望だ!
私が今溜め込んでいるのは決して醜い脂肪ではなかったのだ。
この脂肪が私に「愛し守る」気持ちを教えてくれた。

本当に人を愛し守る事とは
体調や外見に変化があっても
見捨てないという
安心を交換するんだ

残念だけど消えるのはあんたの番だよ「悪し」
気がついた私はもう負けない

姉を底無し沼の闇から救える手段が、思考停止だった私の脳が、淀んで止まっていた刻が動き始めそうな気配がする。

日差しをうけ輝く浅瀬に浮上したいと思った。

お姉ちゃん、
武史がくれた大きな愛を、
もっと育ててもっと大きくするから待ってて。

「卑しく愚かな悪し」に弄ばれ、私の代わりに痛みに耐えたお姉ちゃんを、今度は私が愛で守るよ、だからもう少しだけ深い場所で休ませて。

お姉ちゃん
待っててね
希望が生まれたから
私頑張るよ

−完ー
一百野 木香