漆;手塩にかけて、頑張れ私

手塩にかけて
願いを込めて
明るい未来を
信じて生きろ 
頑張れ私
頑張れ私

あぁ、すまないね、適当に座って。
ん?わかった、お茶くらい出そうと思ったけど余計か。
あたしの朝?遅いんだか早いんだかよくわからないけど、旦那の出勤日によるよ。三時か四時半に起きてあそこの狭い台所で旦那のおにぎり握るの、毎朝。
塩を混ぜるんじゃなくて表側(おもてっかわ)だけ味ついてんのがお好みなんだって、あの馬鹿舌に違いがわかるんだかどうだか、あたしは知らないけど仰せの通り握ってたよ?

え?だからさ手塩にかけるって言葉あるじゃん?まんまだよ、あの缶から塩とって手にのっけて米握るの。粗塩ってとこがポイントなんだって、拘(こだわ)ってる?あたしじゃないよ、拘ってたのは旦那だよ。

夫婦仲?良くも悪くもないよ、だって喋んないからあたしらは。
あいつはさ、あ、あいつって旦那だけど、帰ってきて録画したドラマ見ながら飯食ったら、さっさと寝るの、朝だって早いから喧嘩する時間がない。

金で揉めてた?ははっ、あんなの喧嘩のうちに入らないよ、金が無いなんてあたしらには日常だよ、おたくみたいな名刺もらえるご立派な勤め人じゃないの、ってかその辺調べて来てるんでしょ?

まぁ金には困ってた。でもあたしは働いてないから、タバコ代と飯代さえ残しといてくれりゃ、服なんて何でもいいからそんなに必要なかったけどね。
あいつは時計とかいいの持ってるって言ってたよ?男には見てくれってもんがあるんだと。
スーツ着て働くわけでもないのに、なにが見てくれなんだかあたしは理解出来ないど。
金かけてたんだろうね、借金作るくらいなんだからさ。あんた時計の価値わかる?高く売れっかな。

まぁよくある自転車操業ってやつ。こっちの返済にあっちから借りて、それもダメなら別んとこって。毎月綱渡りだったんじゃないの?管理はあいつだったからねぇ。
原因?よくある話、酒とギャンブル。

私は相手の顔色を伺い、注意深く言葉を選ぶ。

は?あたしはパチンコだけ。しかもあいつが誘う時しか行かないよ。
あいつはスロットもやってた。イチパチ?やんない、やんないよ、だって万発出たらどーすんの。だからヨンパチじゃなきゃやる意味ないよ。
昔は毎日(まいんち)行ってたけど、ヤバかったんじゃないの?最近。
まぁあたしが管理してないから細かい所はわかんないけど。
飲み歩く回数がまず減った、驚いたよ。休みの日なんて次の日の昼まで飲んで打ちに行ってたんだからね。
そんでもって、気付いたら毎晩帰ってくるようになってて、昼飯もおにぎり用意しろって言うから、あたしが朝早くからバカみたいに作ってたんじゃん。
とうとう昼飯すら出せないくらい首まわんないんだ、とは思ったよ?だから水筒も持たせてさ、金使わせないようにしたんだけどね。

我慢できないんだろうね、休みの日は行こうとするんだ。だから一応は止めるよ?こっちだって台所事情分かってんだもん。
だけど、じゃぁ一緒に行くかって聞いてくんの。それでもやめとけって言うじゃん?するとさ、お前だって俺の金で生活してんだろ、だったら俺が少しぐらい使っても構わねぇだろって。

あたしも嫌いじゃないから、誘うって事は金はまだ大丈夫って思ってた。
一回?うーん、二人で七、八万ぐらいかな?時間?二時間くらいは保つよ、やんないの?パチンコ。
まぁ毎回じゃないけどさ、出るとき倍くらいになるから、トントンくらいだったんじゃない?いやいや、負けてはないよ、トントン。

こんなに上手くいくなんて、でもまだ気を抜くな。頑張れ私。
家計は火の車どころの騒ぎじゃなく、親に頭を下げるか、さらに審査の緩い所から借りるか、そのくらい逼迫(ひっぱく)していた。
親達から何度か助けてもらっていたから、もう貸してもらえない事はわかってた。
だからなるべく切り詰めようと夫に提案だってもちろんした。
二人でギャンブルから足を洗おうよ、頑張ろうって。
でも夫の脳はギャンブルで染まっていて無理だった。一週間我慢しても翌週にはもう保たない。
私を蹴っ飛ばしてでもパチンコ台を目指して家を出て行く。
一ヶ月のうち八回ある休日。パチンコに行く回数を半分の四回に減らしても、行けば倍使うから結局出ていく金額が変わらない。
おにぎりだって嫌がっていた。後輩の手前かっこ悪いと。だけどそんな悠長な事を言っている台所事情ではなかった。
カードが使える店以外で買い物が出来ないほど現金に常に困っていたから。

夫は見栄っ張りだから、後輩と一緒に店に行けば必ずカードで支払ってしまう。財布を後輩に出させない。だからおにぎりと水筒。

だけど昼食代を切り詰めた所で、一回のギャンブルで使う金額には到底追いつかない。
底の抜けたタライにせっせと水を貯めようと悪あがきしてるだけで、いつまで経っても水が貯まらない。それどころか穴はみるみる大きくなっていく。
蛇口の水を止め、タライの穴を修理するしかない。

わかってる
大丈夫だから
心配すんな

そんな真実味のない嘘と、形として残りもしないものを求め、夫はパチンコに出かける。
ねぇ私たちもう四十六なんだよ、このままで老後どうやって暮らしていくつもり?
ジリジリする焦りの中、頭の悪い私なりに返済計画をネット見ながら作ってみた。
このままだと六十になってもお金の心配をして生きなくてはいけない事を知った。

当然夫に見せた
わかってる
何とかなる
ってかうるせぇよ
だって

この多額の借金を一体どこがどうしたら何とかなるのか、教えて欲しいくらいだ。
考えるのがバカらしくなった。

夫はそれ以来、外で飲み歩く回数もパチンコに出かける回数も、使う金額も減った事は減った。
でも借金返済額のうち三分の二が利息で消える。パチンコに行く回数を減らしたぐらいじゃ焼け石に水にもなりやしない。
ざっと計算しても手取りの分が丸々返済に回されるからそもそも毎月の生活費が無い。でも家賃も食費もスマホ代だって必要で、少しも無駄遣いする隙間すらない小学生でもわかる計算。それでも夫は我慢できず、結局パチンコに行くから永遠に終わらない。

お金の管理をしているのは夫だからもういいやと思った。闇に手を出すならそれも仕方ない。ただ一緒に沈むのだけはごめん。

後輩に慕われていて男気がある人と思っていたのは結婚して数年だけだった。稼いでると思っていたものは全て借りてきたものだった。慕われてたんじゃなくて、すぐ奢(おご)る金離れのいい先輩だから集(たか)られてただけ。
圧倒的にお金の計算が苦手で、敬語一つまともに話せないから、ずっと現場で汗を流して労働するしかなく、お給料は凪のように穏やかで、後輩に追い越されていく現実。

詰んだな、私。

夫とは行きつけのスナックで出会った。
私もだけど、記憶がなくなるまで飲むのが酒だと思ってるから、まぁよく飲み歩いた。
そんな中で、女友達が一人、また一人と、結婚して去っていく。
でも私は家庭に憧れもなく、パーッと飲んで騒ぐのが人生だと思っていたから遊ぶ事を意地でも辞めたくなかったし、子供を産んでおばさんになっていく女友達のようになりたいとも思わなかった。それに夫は稼いでると思ってたから、毎晩梯子しては飲んで遊んで暮らしてた。

遊んで暮らしてたら、こんな歳とこんな人生になっていた。
私たちにあるのは借金だけ。友達たちが当たり前に手に入れている貯蓄も家も車も何一つ持ってない。家なんて今時学生だって住むかどうかってくらい古いアパート。その家賃すら滞りがちな惨めな現実。

女友達は言っていた、いつまでも若くないんだから、堅実にお金貯めな?パチンコなんて結局は勝てないんだから現実見なよ、お金持ってて損はないよ?って。
あの時は妬(ねた)んででるって思ってた。自由に飲み歩ける私に嫉妬してるんだと。だって借金を増やすことに私も加担してたなんて知らなかったから。
だから今更みっともなくて再会なんて出来やしない。私が落ちぶれた暮らしをしてるのをママから聞いて知ってるみたいだし。

そう、行きつけのスナックはカードが使えない。ツケが溜まりどうにもならなくなってママに洗いざらい話した。
ママが、焼酎5本でいいから、今すぐ目の前のコンビニで買っておいで、それならカード使えるんでしょ?って。いいよそんなあんたから儲けなんて貰えない。こんな所に来てないで二人で真面目に借金返しなさいって。情けなくて恥ずかしかった。

多分二人してギャンブル依存症なんだろう。
やめなくちゃ、もうやめにしよう、何度も誓ったけど一旦打ち始めると止められない。
現金にいつも困っているけど、出れば現金になって財布に帰ってくるから。
それに今はなんでもキャッシュレスだから、なんとなくそこまでお金が無いって実感が薄い。まだ平気、まだ限度額まで大丈夫、って結局はカード地獄なんだけどね。っていうか、そもそも夫は借金生活から抜け出そうなんて考えてるんだろうか。

四面楚歌?八方塞がり?
とにかく私は人生詰んだ、男を見る目がなかったんだろう。
いや違うな、夫も私も同種だ。
他に楽しみもやりたい事もなく起きて夜が来て寝てまた起きる、この繰り返し。
なのに私たちは無駄なものばかりに使ってしまう。
たった二時間で溶かしてしまう諭吉で家賃を払ってもお釣りが来るのに、そのたった一回が我慢が出来ない。

ギャンブルはアルコールより無心になれるからやめられない。借金も台を眺めてる時間は忘れられるか好き。ちょっとでも玉が中央に寄るもんなら、やった、現金来よいって。ドーパミンが出番を控えて疼く。わかってる現実逃避ってことは。

バカだとは思う。
だって胃袋も満たされなければ、下手すれば財布もすっからかんで、敗北感で一杯になり死にたくなる。行かなきゃいい、そうすればこんなにジリジリ焦らなくて済む。でも返済日が近くなるとどうしても我慢できなくなる。逃げたくて、喧嘩の代わりに二人でパチンコ屋に足が向いてしまう、ろくでなしの私たち。
頭の中なかは、金、金、金、いつまで経っても金の心配から逃げられない。

満たされることもなければ形に残りもしない物に湯水の如く金を使って一体何がしたいんだろう?夫も私もどっこいどっこいのバカだ。しなくていい苦労を毎月毎月自分たちで増やしてるんだから。

だけどちょっとだけ私の方が理性が残ってたみたい。
夫はもう楽な方、楽な方へと落ちていこうとしている。
一緒に沈むほど私はお人好しじゃない、でも一人で生きていくには仕事を探すところから始めないといけなくて、それはそれで億劫。

だから一つ賭けてみようと思った。私の運がまだ残ってるかどうかを。

母から聞いた事がある。塩を気づかれないよう、ちょっとずつ増やすんだと。
いずれ卒中とかでころっと逝くよ、即効性はないけど完全犯罪の完成だって。
だから夫の料理に少しづつ塩を増やしていった。今じゃコーヒーに入ってることすら気がつかないくらいまで増やせてた。

夫がころっと逝くか、闇に沈む前に私が逃げ出すか

歳をとっても別に何か希望があるわけじゃない私の未来だ。ならば人生のギャンブルに打って出てみようと思った。ノーリスク、ハイリターン。夫の生命保険はちゃんと払ってたから。

で、今日は何の確認?聞きたいことあんでしょ?
夫の健診の結果?あんた見たでしょ?この数年ろくな検査してなかったじゃん。身長、体重、尿、血液、あと視力か…あんなの小学校だってやってくれる程度じゃん。よっぽど会社も儲かってなかったんだろうね。
あいつの健康状態って、あんた、この部屋見りゃわかんだろう。そんなの気にするくらいなら、酒飲んで寝ちゃってたよ。

え?終わり?ああ、ご苦労さん。
それでさぁ、保険金支払ってくれんの?
そりゃ死んでくれたらって思わないこともなかったよ、借金チャラになるじゃん?だけどさ実際居なくなるって、そりゃあんた寂しいもんだよ。

あぁ、ご苦労さん。悪かったね、こんな小汚いとこまで足運ばせて。
ありがとさん、そうだね、あぁ借金返せるから助かるよ、すまないね。
気をつけて帰んな。

玄関のドアが閉まる。
やった、勝った!私は賭けに勝ったんだ!
圧勝だ!私の人生まだ詰んでなかった。
はぁ、ドーパミンのシャワーが心地よい。
こんなにワクワクしたのは何年ぶりだろう。
毎日疑われないように少しづつ塩を増やした甲斐があった。

夫は通勤途中、事故を起こし呆気なく逝った。
ドライブレコーダーの映像を警察で見た。夫の運転するバイクは赤信号で停止せず、そのまま交差点に倒れるように突っ込んでいた。
検死の結果、心筋梗塞の発作に見舞われたため運転操作を誤ったとわかったそうだ。保険調査員は、まだ四十六という年齢と、通院歴がなかったことから念のため確認に出向いたと言った。
労災もおりるかもしれない。

なんだか力が漲(みなぎ)ってきた。
しょぼくれて終わると思ってた私の人生に追い風がやってきた。
これで人生やり直そう、今度こそ真っ当な暮らしをしよう。

こんな古ぼけたアパートを越してちょっと小綺麗な家に住むんだ。頑張って痩せて、洒落た服を買って、落ちぶれたと思っている女友達を呼んで見返してやろう。
だって私は人生の賭けに勝ったんだから無敵だ。

私の明るい未来のために
強く強く願いを込めて

手塩にかけて握ったおむすび
私の人生に光を与えてくれた

こんなに綺麗に勝ちが決まると
思ってなかった
たまんない

これだからギャンブルは
やめられない

一百野 木香