参;餌付け。前編

そんなつもりは毛頭なかった。
浮気する人間は大抵そう言うが、私も例外ではなかったな。

初めは自分に関心を持って話を聞いてくれるのが単純に嬉しかった。

このまま小さいながらも自分が経営する仕事場と連絡事項しか話さなくなった見慣れた家人のいる家との往復で終わるんだろう。
まあ、他所もこんなもんだ、安定した人生ってやつだな。
今更人生の脇道を興味本位に進んで、安定を手放すほど若くもなければ、興味もなかった。

長年のデスクワークのつけか、腰を痛め整体に通っている。行って電気を当ててもらい、マッサージをすると楽になる気がする。
酒を飲まない私の小遣いの使い道がそのくらいしかない。ケーキを買って帰っても家人の反応も薄くパッとしないなら自分に使う方が有効ってもんだろう。

あの夜、受付に新しい子が入っていた。
「新人さん?見かけない顔だね」

「はい、研修が終わり昨日からこの店舗に配属されました。よろしくお願いします」

よくある挨拶だ。特別何かを感じたわけでもない。新人が入った、それだけ。
ある日新人さんがマッサージを担当することになった。
何気ない会話から、生活が大変なのが窺えた。家賃と光熱費を引くといくらも残らない、だから昼食はロッカーにあるお客からの差し入れでしのいでる、そう笑って話した。
冗談まじり「じゃあ今度お腹いっぱいごはん食べに連れて行ってあげようか」
下心などもちろんない、その場だけの挨拶程度の会話だ。

「いいんですか?ぜひお願いします」そう新人さんは笑った。

自宅から近い整形に通っているのだから、街で出くわしても不思議ではなかったのだろう。
ある晩改札を出たところで新人さんと出くわした。

「今日は早番?おつかれだね。そうだ、夕飯まだならご馳走しようか?」
断るだろうが、大人としての見栄がつい口を出た。この前の会話を反故にしない程度の余裕があるんだ、と。

「え、いいんですか?お腹ぺこぺこなんです。嬉しいなぁ」

娘ほどの年頃だ、並べば親子に見えるだろう。断ると思っていたから一瞬たじろいだが、悪い気はしなかった。

新人さんは驚くほどよく食べた。呆れるを通り越し、もはや天晴れだ。ここまで人の財布を気にせず食べれるなんて大したもんだ。

「ご馳走様でした。久しぶりにお腹いっぱいで苦しいです。
ありがとうございました。今度、コーヒーくらいしかご馳走できませんがお礼をさせてください。LINE交換しませんか?」

ほう、こんな若い子とLINEを交換するとは思ってもみなかった。まあ客から奢られてお礼無しじゃ新人さんも気がひけるのだろう、奢ってもらいたいわけではないが、軽い気持ちで連絡先を交換した。

コーヒーをご馳走になりそれで終わると思っていたが、意外だが新人さんと気があうのだ。
正直言って楽しい。そうだ、楽しい。
長年暮らしている家人との会話の鮮度はとうにない。新人さんは、弾ける笑顔で私の話を楽しげに聞くのだ。いつの間にか、週に3回は新人さんと夕食を摂ることが自然と決まり事になっていた。

遅番のあと、新人さんが車まで走ってくる姿もすっかり見慣れてきた。
仕事の上でお酒が飲めないのはあまり歓迎されないが、深夜まで営業している店はたいてい国道沿い、店へ行くにも食後アパートへ送り届けるにも飲めなくてむしろ好都合だった。
仕事場に戻るとさえ言えば家人は「ふうん」と納得し疑いさえしない。

ご飯が食べたい新人さんと、会話がしたい私、まるで餌付けだな。

親子ほどの年齢の新人さんと並んで歩いていると他人の視線を感じる事が度々あった。
本当の親子ではないであろう距離感に人は敏感なものだ。
どうだ?羨ましいだろう?私と同年代からの羨望の視線を感じることに優越感を覚える。
実に充たされた気分だ。

新人さんは相変わらずよく食べる。
家人と夕食を摂った後に会う私はコーヒー位しか頼まない。
ステーキにオムライスを平らげた後、パフェとケーキを追加するのだ。一体どこからそんな食欲が湧くのか。

初めは純粋に楽しかった、奢ることも私が好き好んで餌付けをしている。
だから見返りなど考えもしなかった。初めは、だ。

だが、次第に距離が近くなり多少の援助をする事が増えてきた。

きっかけは携帯料金が払えない、店との連絡も私との連絡も取れない、どうしよう。
「そんなの払ってあげるから、帰りにコンビニに寄ろう」笑って大人の余裕を見せてやった事だった。

週3回の夕飯、仕事用のスーツ、家賃の不足分、欲しそうに眺める服や鞄、

「ありがとうございます」と新人さんは嬉しそうにお礼を言う。
お礼を言うだけ、コーヒーすら私が支払うのが当たり前になったのはいつ頃だ?

私の小遣いで一人の人間の欲望を満たすには正直心もとない。
それにお礼だけ、見返りを求めているわけじゃないが、出会い始めのような関心を私に示さなくなってきた事に軽く苛立つようになった。

かつては遠慮がちに「これも頼んでいいですか?」そう言っていたのが、いつの間にか当たり前に好きなものを好きなだけ注文する。オーダーが通るとスマホに視線を落とし、会話も生返事、聞いてないこともしばしば。

私は自分の意見ではなく「大人の常識」として大人と会話するときの礼儀という名目で不満を訴えた。素直に頷く新人さん、だが正したのは態度であって、関心は私へ戻ってこない。

私は財布なのか?そう思う事が増えていく…

ー後編へ續くー
一百野 木香