肆;我が人生の全てを咲凜へ捧ぐ

肆;我が人生の全てを咲凜へ捧ぐ

伝えたい言葉はもう決まっている。
あとは叶えるべく全うするだけだ。
みていておくれ、私の奮闘を。

咲凜(えみり)と出会ったのは彼女がまだ十代の頃。
弟の敦(あつし)の友人の一人で、どこか異国を感じさせる意思の強そうな大きな瞳が印象的だった。だが印象に残っただけで後に人生に深く関わるような何かは感じなかった。

二度目に顔を合わせたのは敦の結婚式だった。三十二歳になった咲凜は控えめに言っても美人で、見惚れてしまった。
話しかけたところ覚えていてくれたようで、人懐っこい笑顔で再会を喜んでくれ、不思議だがなんだか泣きそうになった。

そう、咲凜には包容力がある、誰もがイメージする「女神」のような。
声をかけたら冷たくあしらわれそうな容姿なのに、話すと気さくで優しくて、ほっと寛げるギャップ。瞬く間に恋に落ちた。そう、落ちたのだ。

咲凜が私の全てとなった、そう本当に全てだ。彼女が微笑めば私も嬉しく、彼女のご機嫌が斜めになるとオロオロし、なんとか笑顔になってほしくて進んでピエロにだってなった。
咲凜の我がままを叶えてあげる事は私の至福であり、喜びはしゃぐ姿は、そのまま額に入れて飾りたいほど、この世にうっかり迷い込んでしまったヴィーナスのような美しさだった。

彼女をエスコートしているようで、実は舵を取るのは咲凜で、私の感情はもはや彼女次第となったが、それもまた味わったことのない満足感、彼女の我がままを可愛いと思え、叶えてやれる私は大人の男のようで優越感すら感じていた。
姫君を守る騎士の気分で咲凜の隣を歩く私を誇らしく思い、満たされていた。

僕と結婚してくれませんか?
どうか咲凜は咲凜のまま、無邪気に心の向くままに生きてくれ。楽しみを見つけ走り出し、うっかり道端の花を踏みそうな時、私が防ぐから、嬉びはしゃぐ楽しそうな君の背中を私に見せ続けてくれないか?
そして守らせてほしい、ダメだろうか?

余裕のあるフリを装うのが精一杯で、咲凜に断られるかどうか泳ぎそうな自分の目にしっかりしろと叱咤し、微笑んだ。

びっくりした顔を一瞬したが、すぐに大きな瞳を輝かせ
「わ、こーちゃん!もちろんイエスだよ。でも私と結婚するなら一キャラットのダイヤが必要だよ?大丈夫?」
そう言ってキラキラした瞳で覗き込むエミリは、たまらなく可愛くて、たまらなく美しく、天使が私の腕に絡まってきたかと思ったほどだ。
実は泣きたいくらい嬉しかったが、ふっと微笑みに留める事に成功し、

わかってるよ、咲凜。君の薬指が隠れるほどの、世界で一つしかない指輪を送らせてくれ。

いつもそうだ、咲凜の前で紳士ぶってしまうのだ。余裕のある大人の男でいたいと思ってしまう。たった四年しか離れていないのだが、大人の男のように振る舞いたくなる相手、咲凜はそんな女性だった。
咲凜との結婚生活が彼女が幸せと感じてくれるものであれ、そう私の想いを込め、ルースの一キャラットのダイヤを選んだ。
台座のないルースのダイヤを渡し、

咲凜の好きなブランドで台座をデザインしてもらわないかい?

そう言うと、平伏したくなるほどに神々しく完璧な笑顔で「とっても綺麗」と、うっとり輝きを見つめた。
この瞬間だけで私は満たされた。この目の前の女神を今世界一幸せにしているのは私なのだと世界中に叫びたいような高揚感。

咲凜の左手の薬指の中央には、私の選んだ一キャラットのダイヤが鎮座し、その周りは咲凜が好きなデザインを選べばいい。この一キャラットのルースは咲凜が私だけの女神になった証として、どうしても私が石を選びたかった。
お洒落が大好きな咲凜だ、台座のデザインを選ぶという提案は気が利いているんじゃないかな?と、いわば自己満足のルースの石だ。

案の定咲凜は大はしゃぎで
「こーちゃん!大好き!」
と首に絡み付いてきた。

敦が私を見たら引くだろう自覚があるほどには咲凜に夢中だった。

とにかく咲凜の全てが大好きだった。どんなに振り回されようと、理不尽を言われようと、願いが叶った時の満足そうな可愛らしさに比べたら全くもって気にならなず、そんなことよりも、他の男に取られたくなくて、なんとか咲凜を自分の腕の中に包んでおきたかった。

社会人としての咲凜は年相応の落ち着きを見せていたようだが、私の前ではいろんな顔を覗かせた。とにかく感情の振れ幅が大きい。思い切り喜び、思い切り楽しみ、思い切り怒り、とても悲しそうに泣くのだ。喜んでくれることが私の幸せで、怒らせ泣かせてしまうとオロオロしてしまい、泣くだけ泣いたら、擦り寄ってきて「寂しかったの、怒ってごめんなさい」と可愛らしい泣き顔で言うのだ。

全くもって怒れない。

私とていつも平常心な訳でなはい、言われて腹が立つ時だってあれば、イラつく事もある。しかし、言い返そうとするより僅(わず)かに早く、咲凜が泣くのだ。
女神が華奢な肩を震わせポロポロと大粒の涙を流し「優しくないのは嫌いなの。こーちゃんは私にだけ優しくしてくれなくちゃ嫌なの」と、泣くのだ。だめだ、そんな可愛らしく拗ねられたら私はもう戦意喪失してしまう。

ごめんよ咲凜、私が大人気なかったね

そう言ってそっと抱き寄せる。
私の体にぴったりくっつき「意地悪しないでね」と言うのだ。はぁ、敵わない。可愛らしいこの女神にどうやって怒ることができるのだ?
そして我がままを許せる私はまるで大人の男の様で、咲凜を守る騎士の様で、誇らしくもあったのだ。

咲凜は私の男としての自尊心を満足させてくれる存在だ。
美人なのはもちろんなのだが、彼女がいるだけで場が和み、皆が彼女を好きになる。明るくて話しやすく、話題が豊富で、老若男女分け隔てなく優しくて、皆を笑顔にする魅力があった。
天性の親しみやすやとでも言うのだろうか。そんな存在だ。

ウエディングドレスは咲凜らしく個性的なデザインだった。大きなパーツのレースをパールで留め合わせたVのラインがキリッと際立ち、それでいてドレスの裾には繊細なレースがこれでもか、と溢れんばかりに彼女の動きに優雅に従うのであった。完璧、そうこれ以上ないほど咲凜に似合っていて、この女神が私の生涯の伴侶となってくれる幸運に、溢れる涙が我慢できなかった。

悪戯っ子のような顔で、瞳を輝かせ、
「ふふふ、やだなぁ、こーちゃん。あんまりにも綺麗で驚いた?このドレスね、裾が三メートルあってね、ベールは六メートルなんだよ。きれいなレースだよねぇ」
そう言って咲凜はドレスの裾を揺らした。
綺麗なのはドレスじゃなくて咲凜だよ、照れて言えなかった言葉。

結婚初夜というのかな、咲凜が結婚指輪に婚約指輪であるダイヤを重ねた指をライトに反射させ、
「こーちゃん、ありがとう、お姫様みたいな綺麗な指輪。本当にありがとう、今日すごく楽しかったよ。
すごいよね、結婚式って。知らない人なのに、みんながおめでとうって笑顔で祝福してくれてさ。
めちゃくちゃ楽しかった!大好きだよ、こーちゃんと結婚できて世界一幸せ」
咲凜の指を覆い隠す大きな輝きを、角度を変えては、うっとりと眺めたあと、私の目を見つめこんな可愛い言葉を告げ、ポロッと涙をこぼすのだ。

いいや、私の方こそ、ありがとう。
言葉にすると、また涙ぐみそうだったので、そっと抱き寄せた。

私たちの船出は順調であった。
相変わらず、天真爛漫というか、山の天気の様とでもいうのか、今泣いた烏(からす)がもう笑った、そんな咲凜であったが、やはり舵を取るのは彼女がいい、私たちにはこのスタイルがよかった。
咲凜が気に入った部屋を決め、家具、カーテン、小物に至るまで全て選んだ。
こーちゃんの趣味はいまいちなのだそうだ。どっちがいい?と聞くから答えるのだが、いつもこの調子、これがまた可愛いから私に異論は無かった。

そりゃ喧嘩もした。時に激しすぎる感情をぶつけ、ものを投げ、私を叩く彼女に我慢が出来ず言い争った日も、家を飛び出し頭を冷やした夜もあった。

「意地悪を言うこーちゃんなんて大嫌い」

喧嘩を繰り返すうちに分かったのだ。咲凜の大嫌いは、悲しいという感情だと。
咲凜の癇癪は、私を見て、という寂しさだと。
だんだん咲凜の癇癪の扱い方が分かってきて、激怒させることも減り、コロコロと笑い合う、いい阿吽の呼吸になった頃、妊娠がわかった。

桜の花びらがひらりと春を告げるある晴れた日、咲凜によく似た可愛らしい男の子が我が家に舞い降りた。女神が天使を抱いているのだ、目の前の光景があまりにも美しく、私は震えるほどの喜びを知った。

咲凜らしい子供との向き合い方を見ては、彼女と結婚できた私は本当に幸せで、彼女の元に舞い降りた天使もきっと幸せなんじゃないだろうか、と二人を守るために生きると誓った。

寝ない天使を抱きながら手を繋ぎ月夜を歩いたり、夢の国に行けば子供二人を引率している様に愉快で、美味しいものを食べては笑い合って、咲凜は息子の目線に合わせて生きていた。
息子は見るもの触れるもの全てがはじめましての世界で、女神に守られ優しいという成分だけで出来ているんじゃないか?と思うほど穏やかに健やかに育っていった。

夢でも見ているんじゃないか。
そう思うほどに完璧で穏やかで幸せな世界、ずっと続け、続いてくれ、何かがある訳じゃないが幸せすぎて失う不安が頭の隅に常にあった。

若年性アルツハイマー

完璧な世界などやはりないのだ。
ある夜、咲凜がキッチンからやってきて
「カレーの作り方がわからない」
そう茫然とした表情で告げた。

坂道を転がる様に、まさに言葉の通りだ。
まだ四十数年しか生きていない彼女の記憶を、病が残酷にも消していくのだった。
境界線がはっきりしていた時は、まだ母親であり、妻であり、咲凜であった。

そのうちに息子のことを自分の弟だと思い、私を父親だと思い始めるようになる。
そう、えみりになるのだ。その時は私を「パパ」と呼ぶ、
「パパ、行かないで一人は怖いの」と。

「こんな私になってごめんね、こーちゃん」と、咲凜が戻ってくる時がある。
相変わらず咲凜は泣き顔さえ美しく、見ている私はどう声をかければ良いのか分からなくて、大丈夫だよ咲凜、と全然大丈夫じゃない言葉しか返せない。

咲凜なのだ、もっと話したいことが沢山ある、愛していることを、大切にしていると、咲凜と家族になれてどれほど幸せかと、今まで照れて言うことができなかった言葉を伝えたい。
だがどんなに伝えても、えみりの記憶には残らないのだ。

激しい後悔が私を襲う、咲凜にもっとちゃんと伝えておくべきだった、君が大切だと、離したくない、愛しているよと。
私が照れずに言っていたら咲凜はきっとキラキラした瞳をますます輝かせて
「こーちゃん大好き!」と飛びついてきただろう。
何度だって何度だって機会はあったじゃないか、もっと咲凜を幸せな気持ちにしてあげればよかった。

息子は女神だった母が自分よりも幼くなっていく姿に戸惑い、それでも彼なりの優しさで接してくれていて、その姿すらも咲凜を感じ悲しくなる。

ある晩咲凜が言った。
「こーちゃん、息子をどうぞよろしくお願いします。
あの子はきっとこーちゃんと上手くやっていける、二人はいいコンビだよね。
私ね、こーちゃんと結婚出来て本当に幸せで、これ以上ないんじゃないかって、夢かもしれないって思ってた。
いい人は早く死ぬって言うから、こーちゃんに残されちゃうんだな、私いっぱい我がまま言っちゃったから、って怖かった。
でも逆だったね、ごめん、本当にごめんね。あの子を私がしてもらったように、こーちゃんの愛で幸せにしてあげて」

もちろんだよ、あの子は私たちの天使じゃないか、咲凜も息子も愛しているよ、だからそんな事を言わないでくれ、私と一緒にこれからも育てようよ。

「こーちゃん、お願い、わかった任せろって言って」
ポロポロ泣きながら懇願されたら、言うしかないじゃないか咲凜…

「あっ!あとひとつ、これが大事なの、こーちゃん。私が死んで、もし再婚したら天国から浮気者!!!って罵ってやるから、私を忘れちゃダメだよ」

わかったよ咲凜、安心して私に任せておきなさい、
あと咲凜以外の女性を一生好きにならないから、それも大丈夫。

伝えたいことを言えて安心したのか、これを最後に咲凜は二度と戻って来なかった。
やがて自分の身の回りのことが出来なくなり入院をした。

息子と風船をポンポンと弾ませてはしゃいだり、ジュースを買ってと甘えたり、
緩くなってしまった婚約指輪だが、自慢げに
「これえみりの宝物なの。きれいでしょ、あげないよ?」と、少女の様なえみり。

それはそれで可愛くて、それが余計に咲凜の不在を強くする。よくわからないが、自分に大丈夫と言い聞かせて祈る思いで過ごしていた。

病院で私が体を拭く時がある。子供の様ににっこり笑って「パパ、気持ちいいねぇ」と話しかけるのだ。この肌は、身体は、かつて愛した咲凜であって、咲凜ではないのだ。張り裂けそうに悲しくて、たまらなく愛しいのに、もう二度と抱くことが出来ない咲凜。

それから一つ季節を過ぎた頃、あっけなく肺炎でこの世を去ってしまった。
最後まで私をこーちゃんとは呼んでくれず、パパと呼んであっけなく逝ってしまった。
咲凜はきっとあの時に先に天へ帰ったのだと思いたい。

そうだったら良いな、もしえみりの記憶に咲凜が残っていたら、あの優しい彼女ことだ、私や息子の気持ちを思い人知れず辛い別れとなっていただろうから。
できれば、えみりとして天へ帰ってくれ、その先に咲凜がきっと優しく待っているだろうから。

私の人生の使命は咲凜の遺した願いを果たすことだけになってしまった。
息子を大切に育てるよ、咲凜。
君以上に素敵な人はこの世にいないから安心してくれ、咲凜。
お姫様の様な指輪は私が全てを捧げ愛した人がいた証として、大切に守らせてくれ。

我が人生の全てを咲凜へ捧ぐ

咲凜が私の人生の全てだったから
他にはもうなにもいらない
君の願いを叶えるよう全うするから
いつか笑顔で迎えてくれるかな

今度はちゃんと照れずに言うよ
こーちゃん恥ずかしいって笑っても
耳を真っ赤にしたって言い続けるよ
愛してるよ咲凜

一百野 木香